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今なお癒えない傷をシーンに残したバンドthe cabs

2013年の2月27日にthe cabsというバンドが解散を発表した。

Gt.高橋國光が2月頭より失踪していたために、渋谷O-nest(現、渋谷TSUTAYA O-nest)でのキャンセルとなったライブ当日のことであった。当時のthe cabsは「再生の風景」という1stフルアルバムをリリースした直後であり、中止になったライブもリリースツアーであった。新進気鋭のロックバンドのある意味“ロックバンドらしい”解散劇は多くのリスナーに衝撃を与えた。

あれから2年以上も経つのだが、先日この様なツイートを目にした。

今を時めく ゲスの極み、乙女。のフロントマンでありindigo la endのフロントマンでもある川谷絵音がthe cabsの解散を惜しむツイートをし、それにcinema staffのコンポーザーであるBa.三島想平が同意をするツイートである。特にcinema staffとはthe cabsが18歳の頃からの間柄であり、一歳上で残響のレーベルメイトであるcinema staffをthe cabsはまさに兄の様に慕っていたのである。過去に高橋がファンとの交流を行っていた質問サイト「ザ・インタビューズ」においても尊敬する人物の一人として三島を挙げるなど、ことあるごとに三島の名前を出していたのである。そのような間柄であったからこそ出た言葉なのだろう。

「美しくも狂っている」the cabsの音楽

シーンからその存在を消してもなお、称賛を受け続ける彼らの音楽とはどのようなものなのであろうか。the cabsはGt.(&Vo.)の高橋國光を中心として、Ba.&Vo.の首藤義勝、Dr.の中村一太で構成されるスリーピースバンドであった。そしてその最大の特徴はスリーピースとは思えないほどの音の複雑さであり、めまぐるしい変拍子にあると言える。

これは彼らの代表曲であるが、存分にthe cabsの魅力を2分に満たないうちに体現している。中村のドラムが“爆撃機”と称されるのも納得の恐ろしいほどの手数であり「カンカン」とライドシンバルを多用するのも特徴的だ。マスロック的要素を持っているだけではない。高橋の刺さるようなシャウトがあのギターの轟音の隙間から出る余力もあり、それに加えて、昨今流行る中性的な男性ボーカルが苦手に感じるリスナーの方も少なからずおられることを承知の上で言えば、首藤の歌声がthe cabsにおいて優しく透き通っているからこそコントラストをなしているのである。

また、首藤が歌っている高橋が紡ぎ出す詩世界は文学的で美しい。高橋曰く、「最初の一文がものすごく大事で、印象的な言葉を入れたい」とのポリシーで書かれている。「再生の風景」の曲の中から序文を抜き出してみると、「ラズロ、笑って」は「色のないジャムと値札の張り付けられた言葉」、「わたしたちの失敗」では「浴室に鍵をかけて、誰にも騙されないため」と、確かにリスナーを一瞬で楽曲の中に引き込むような言葉が並べられている。巧みな言葉で浮かぶ情景と、想像の余地が折り重なった詞と言えよう。「再生の風景」のリードトラック「anschluss」では特に美しい詞と歌に衝撃を受けるはずだ。

the cabsの現在地

the cabsの解散後、彼らは別々の道で音楽を続けている。首藤は言わずもがな、the cabsと並行して活動していたKEYTALKで華々しい活躍をしている。KEYTALKでは作詞作曲どちらも手掛けていて、優れた楽曲で観客を躍らせているのだ。高橋の「彼は器用」という評価の通りである。おそらくそのドラムの技術からして引く手数多であったであろう中村は、解散からややしばらく経ってからではあるがplentyに加入。the cabs時代の激しさとは真逆の穏やかな曲が多いが、それでも正確なプレイで支えている。ちなみに、最初に紹介したツイートに中村本人が反応を示しているが、「今ならもっと(the cabsの曲を)上手く叩ける」とのことであるからその底知れなさにはただただ驚きである。

ほかの二人が人気バンドとして活躍する一方、解散の原因を作ってしまった高橋はアニメ「東京喰種」に強く乞われる形でösterreichとしてソロデビューを果たしタイアップを務めた。その起用と放映時期が今年の1月初頭であったため、解散から約2年が経つ時期のことであった。ゲーム版「東京喰種」においても「贅沢な骨」という曲でタイアップを務めることが発表されている。徐々にではあるが、高橋もその才を世に見せる機会が戻りつつあるのだ。

さて、the cabsというバンドについて知ってもらいたい一心で筆を進めたわけだが、結びの言葉は借りてきた言葉で締めくくりたい。初めにもその言葉を引いたcinema staffの三島想平の言葉である。2014年初めの頃のブログより引用した。

the cabsの解散については、いつかblogで言及しようとして約1年もたってしまった。

今もいっさい美談だと思ってはいないし、彼らをレジェンドにする気も無いが単純に、過渡期であったバンドの先を見られないのはファンとして寂しい事である。彼らの信じられないようなアイデアにプレイアビリティが追いついてく様子は、とてもぞくぞくしたのだ。

もう見られないものってのはどうしても美化されがちで、現在進行形のものの方が価値があるというのは重々、理解しているつもりなのだが、とはいうもののどうしたって、どうあがいたって埋められないものもあるというのは人の常なのでしょうか。

でも、進んでいきましょうよ、少しずつでも。

the cabsを誰よりも身近で見てきた人間だからこそ出る言葉である。「再生の風景」というアルバムはまごうことなき傑作でありながら、かつ、その進化にも期待させられる作品であった。残念ながら、もうその先は期待できない今となっては「再生の風景」を振り返って「良かった」と称賛を繰り返すことしか出来ない。亡くなった恋人の様に悪く言えないものとなって、その過去の理想ばかり視界に入ってしまう、前に進みづらい状況。それに彼は区切りをつけようと苦心する様子が読み取れる。

それほどまでにthe cabsは人の心を掴んでしまった。だからこそ、埋められない物足りなさを感じている人は諦めようと努力するが、すればするほどその埋まらなさに気づき、そして、どこかで物足りなさを完全に埋められる“再結成”という時を期待してしまうのだろう。